愛とはなにか…『モアナと伝説の海』から①

更新日:2021年11月23日


「愛は地球を救う」「愛こそすべて」というような

「愛」という言葉を使用したフレーズはよく耳にしますし

ドラマのセリフや歌詞などでも「愛している」という言葉は多用されますが

「愛とはなにか」と問われて、戸惑うことなく説明できる方は少ないのではないでしょうか。


その答えは人それぞれあって、その人の感じ方なので

どれも間違いではないと思うのですが


私自身の経験や研究をとおして確信していることもあり

愛を知っていた方が、あらゆる場面で「生きやすい」と感じる部分もあるかと思いますので

私なりに愛について、少しお伝えできればと思い書かせていただきます。

愛の本質を知りたい・考えたいという方に、何かのヒントになれば幸いです。



私の信じるところでは

愛とは

①ありのまま認めること

②尊厳を重んじること

③自分にできる最善を尽くすこと

です。


抽象的な話だとわかりにくいと感じるので、『モアナと伝説の海』という映画を題材にお伝えしていこうと思います。



私はここ数年、毎年夏には必ず『モアナと伝説の海』を見ています。

2016年公開のディズニー・アニメーションです。


海をはじめ、動植物、自然の映像がものすごく綺麗で引き込まれますし、音楽もクセになって、気づけば一緒に歌っているというほど私にとって魅力的な作品です。

物語を一言で表現すると“はるかな海にこころ惹かれ、志を胸に抱いた少女の、冒険と成長の物語”といった感じかなと。


でもそこは、さすがのディズニー。

見れば見るほど奥が深いんです。

そして根底を流れる大きなテーマは、やはり“愛”なんだなぁ…と痛感します。


両親の願いとは裏腹に、海に想いを馳せるモアナは劇中

『みんなとても幸せそうだわ。それはわかるの。自分の居場所があるのって、ほんと素敵なことよね』

『この道を進んでいく。望まれることは同じ。でもこころに響くのは違う歌』と歌い、海へ向かって走り出します。


私はこのシーンを見る度に、かつて自分が公務員を辞めて心理学の道に進んだ時のことを思い出します。


それは家族からも周囲からも、望まれている道ではありませんでした。

「せっかく安定している職業に就いたのに」「何を今さら?」「落ち着かない人だよね」「いい歳になっていつまでも夢見がちじゃ…」という言葉に

“やっぱり私っておかしいのかも”“このまま人生失敗するのかも”と、自分自身を信じていいのか疑い悩む苦しさも経験しました。


何度も何度も、その場所に留まろうとしてきました。

仕事にも慣れ、相談に乗ってくれる先輩や同僚もいましたし、居心地は決して悪くないはずでした。


でもどうしても、魂が叫ぶんですね。

“私がいる場所はここじゃない!これじゃない!”と。

そういった長い葛藤の末、モアナ同様、私もなんとか未知の海に漕ぎ出すことができました。


退職時は『モアナと伝説の海』はまだ公開されていなかったのですが

心理学の世界に飛び込んでからこの映画に出会い

自身のかつての体験が鮮やかによみがえり

“こころのコンパスに従って人生を切り開くこと”を、深く理解するに至りました。


当時、私の脳は、社会的に自分の行動がどういうものであるか、周囲からどう見られるのか、わかっていました。

どうすれば安定した収入を得られて、老後も安泰で、自分という肉体が安全に生き延びていけるのか。

脳は、様々な知識や情報や経験から学習していきます。

脳は肉体側の司令塔なので、肉体を守ること、遺伝子を存続させること、危険にさらさないこと、周囲の批判を浴びないこと(コミュニティの中で平穏に生きること)を最優先事項とします。

“社会的にこうすべき”“こうしなければならない”“常識”“普通じゃない”といったような感覚は

家庭や学校や社会の中で教育され取り入れられ、後天的に身につけていきます。


しかし、“魂は魂で生きている”と私は感じます。


魂と肉体(脳)が、同じ方向を向いて進んでいくのであれば何ら問題はありません。

ところが、魂の生き方、進みたい方向が肉体と乖離し続けているということは、常に双方にストレスがかかっている状態です。


心身ともに疲弊し、ストレスがバケツ一杯にたまれば、個人個人の心身の弱点めがけて、様々な問題が表出してきます。(消化器系が弱い方であれば胃潰瘍、脳の神経伝達物質の弱点がある場合には統合失調症、肉体は強靭でも魂が潰れていけばうつ病などというように。心身双方に同時多発的にダメージを受けることもあります。)


こころを盗まれたテフィティが、本来の自分を保てなくなったように。


生きるために身体の健康が大切であると同様に、こころの健康も大切です。

目に見えないものだからこそ、身体以上によく意識してあげる必要もあるかもしれません。


常識という固定観念、先入観、周囲の意見や想いを優先して、“自分自身”を愛せていなければ、幸福に生きることはできません。


自分を犠牲にして、他者を優先することが愛だと信じ

自分を疎かにしてまで人に尽くしている方もいますが


そういう方は、求められていないにもかかわらず与えたがったり、おせっかいが過ぎたり、思い込みが強く相手の望みが認識できなかったり


“自分はこんなに尽くしているのに報われない”と、こころの奥底が満たされていなかったり

“周囲からの感謝や評価や称賛を受けることで自尊心の隙間を埋めている”という場合がほとんどです。

『モアナ』の登場人物で言うと、マウイの描かれ方がその典型例として見ることができると思います。

心理学的には「救世主(メサイヤ・メシア)コンプレックス」と称されたりもします。


それは本人が見なくて済むように無意識領域に押し込めた傷の部分であり、本人はそこに気づくことができなかったり、気づくのにかなりの時間を要したりしますが。


本物の慈愛とは、一切の見返りを求めず、「ありがとう」の言葉や気持ち、態度さえも求めず、ただ与えることを喜びとすることです。

慈愛にあこがれる気持ちは私にもわかります。

しかし、そうそう到達できる領域ではないとも思います。


そこに到達したければ、自分を愛しきったのちに、溢れたもので他者を愛することです。


もちろん、他者を軽んじてまで自分を愛することに集中するのではなく

我慢しなければならないときもあり

タイミングを計ることも大切で

「今はここが落としどころかな」という判断も必要です。


“自分も愛する、他者も愛する”そのバランスこそが、『真実の愛』を学び実践するために重要だと感じます。


「こうあるべき」「常識」という誰かがつくった概念や、思い込みや、狭い視野から構成される“自我の世界”から出られるかどうか。


そして、“自我の世界”から出たところで、自分自身のこころ・魂と対峙できるかどうか、

自分を取り囲む世界と対峙できるかどうか。


都合の悪いこと、見たくないことから目をそらしてはいないかどうか。

自分を愛するためにも、誰かを愛するためにも、それは要となってきます。



『ありのまま認める』とは、愛の最も基本の部分であり、そして最も通るのが難しい関門だと私は感じます。

小さな枠にとらわれず、決めつけず、善悪の判断もせず、ただ、ありのまま認められるかどうか。

自分のこころに対しても他者に対しても

色眼鏡を外して見ようと意識していても、クセでしみついているものは容易には外せません。


もうそれは、愛を実践したいという想いと、日々のトレーニングで外していくしかないように思います。

でも、強い想いがあれば、必ず実現できると思います。


私は5年以上かけて、色眼鏡がカラーセロファンくらいにはなってきたのかな、というところです。

まだまだ修行は続きます。

それでも、眼鏡よりはだいぶ軽く

ふっと風で持ち上げることも容易になり

自分自身や世界を、クリアにフラットに見やすくなったと実感しています。


今回は、①ありのまま認めること についての解説でした。

長くなりますので②と③については、また改めて。



写真:西伊豆町にて



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