愛とはなにか…『モアナと伝説の海』から②

更新日:2021年11月23日


①ありのまま認めること

②尊厳を重んじること

③最善を尽くすこと

これらが愛の本質だと、私は感じているのですが


前回のブログでは、『ありのまま認める』ということについて書かせていただきました。


今回は、②尊厳を重んじる ということについて

同じく『モアナと伝説の海』を題材としてお伝えしていきたいと思います。




まず、“尊厳”とはなにか、という話になるのですが

こちらの言葉も“愛”と同様、よく使われるわりには、その実態が理解されていない言葉だと思われます。


特に福祉業界では“尊厳”という言葉は、“理念”として堂々と壁に貼り出されていたり、日常会話にも出てきたりするのですが

意外に、尊厳を軽んじる態度や発言が目立つのも“福祉にたずさわる人”だったりするんですよね。


手持ちの辞書をひいてみますと、『尊厳とは、尊くおごそかなこと』。

漢字そのままというか、実態がわからないというか…どこか曖昧ですね。

何となくわかるのですが、具体的にはどういうこと?と問いかけたくなってしまいます。



私は師から、『尊厳とは、“その方がその方として幸福に生きる一途さ”』と学ばせていただきました。

しかしこのように言い換えてみても、すぐにはご理解いただけないように思います。

さてここで、モアナの出番です。



毎年見ている『モアナと伝説の海』ですが

毎年なんだか“もやもや”する部分があったんです。

でも今年ようやく、自分の中で腑に落ちたというか

自分の中で納得できる分析ができた、というシーンがあります。


そのシーンというのが


“サンゴ礁を越えて漁をすること”を提案し、父親から激怒されたモアナに対して

モアナの母親が

「人はね、なりたいって思っても、できるって思っても、やるべきじゃないことがある」

と言うシーンです。


この部分に対して私が感じていた“もやもや”は恐らく

“母親の、愛から遠のいた対応”

“父親のみならず、母親もなのか”

という感覚だったのだと思います。


でも、実際、こういうご家庭って多いのだろうなと感じます。

父親の強い意向や支配に、無意識に迎合してしまうという家族モデルのような感覚を受けました。

現代は母親支配型のご家庭も多いかとは思いますが。



『モアナが、サンゴ礁を越えたいと望む』

そういった望みを尊重することは

“モアナがモアナとして生きる一途さ”を尊重することです。


一方で、危険を伴うことに対しては養育者が監護することも大切です。

幼く、知識も技術も与えられていない子に対して何の準備もしないまま「死ぬかもしれないけどやらせてみよう」は、放棄になりますよね。


しかし、子どもが成長の過程で、十分な知識や技術を身につけていれば問題ないのです。

誰かが、船に乗る技術や危険性や対処法を教えてさえいれば。


「危険なことはやめなさい。それで障害を負って苦しむのは自分だけではない。誰が面倒見ると思ってるの?」という“脅し文句”がついつい出てしまう親御さんも多いように感じます。

「これはお前の幸せのためなんだ」と信じて疑わない場合もありますよね。


これは親御さん側の、『自分が傷つきたくない・面倒を背負いたくない』という願望の押しつけ…エゴ(自己の欲)の問題が隠れている場合もあると考えられます。

『幸せとはこうだ』という、親御さんの狭い視野から派生した“幸せの押しつけ”の場合も。


“自分が幸福に生きること”“自分が幸福だと思う人生像を子どもにも求めること”に重点が置かれ、“子どもがなにをしたいのか・どう生きたいのか”の価値が軽視されてしまいます。


学歴や職業を重視する親 対 学歴や肩書にとらわれない子

結婚や出産を重視する親 対 家族や子どもに幸福を求めない子

というケースでも親子間の葛藤が出やすいかもしれません。


“世間体を守りたい”とか、“家族がこうだと自分がこう見られる”というのも

尊厳というものの理解が弱いように思います。

自分の尊厳を守るのは大切ですが、人の尊厳を利用してまで達成してはならないものです。

その領域を守らないと、相手への支配が知らず知らずはじまります。

また、領域がよく理解できていない方は、アドラー心理学でいう『課題の分離』ができていないということも起こってきます。(課題の分離については詳しくは、いずれまた…)



“子どもには自分より先に死んでほしくない”“苦労をさせたくない”“取り返しのつかないことになったら”と心配するのもまた親心だとは思うのですが

親子であれ、それぞれの人生を生きています。

そもそも、“苦労=悪”“死=悪”ではないのです。



こころを殺しながら生きること・死んだこころを抱えながら生きること

これはまさに“生き地獄”です。

生き地獄を強いる権利は、誰にもありません。


加害者は加害に気づかないし痛くもかゆくもないのですが、被害者は癒えない傷を抱えたまま苦しむことになります。


長生きすることや、苦労なく生きることが大切なのではなく

生き生きと、生きること

生きて経験すること

経験から感じること、学ぶこと

それらが、生きた年数よりも大事なことだと私は思います。





さて、この物語に戻りますと

登場人物の中で、幼少期から最も深い愛でモアナに接してきたのは、おばあちゃんではないかと感じます。


おばあちゃんは、モアナの海に惹かれる想いをありのまま認め、その一途さをサポートしていきます。

島に伝わる伝説を教え

海に憧れサンゴ礁越えにチャレンジするモアナを、否定せずに見守ります。


恐らく、おばあちゃんが船に乗る技術を持っていたら、モアナに教えることもしていたでしょう。

でも自分にはそれができないこともまた、認めている。

自分にできる限界を知ることも、人を導く上ではとても重要なことです。


おばあちゃんはきっと、気づいていたのだと思います。

この子を本来の道に導くのは両親ではないと。

海やマウイという、人知を超えた大きな力が、導いてくれると。

そうした信頼は、目に見えないものに対する尊厳の現れだと感じます。

宇宙や、地球や、自然や、神々という大いなるものの尊厳と敬意です。

おばあちゃんは、命が尽きてもなお、モアナを見守っていきます。



おばあちゃんは、モアナに問いかけます。

“なにをやるべきなのか”と。

この言葉は、お母さんが言った「やるべきじゃない」という言葉と対照的に浮かび上がってきます。


おばあちゃんがモアナに聞いたのは、他の誰かの意見ではなく

“モアナが、自分軸で、どうしたいのか”です。

その軸にまず気がつかなければ、始めることもできず、周囲との調整もできません。

そこに気づく前のモアナは、“海に出たい”という魂の叫びを押し込めていく形で成長していきました。


子どもは、両親が反対するであろうことは、なるべく表に出さないようにしていきます。

愛してもらいたい対象から否定されることは辛いことだからです。

それでも魂は、隙あらば出口を見つけ出そうとします。

“魚が獲れないならばサンゴ礁を越えるしかない”と船に立つように。

魂の望むものに理屈は通用しないのに、人は時々、理屈をこねて自分自身も周囲も説得しようとしてしまいますよね。



おばあちゃんの死後

海へ出ることを反対していたお母さんは“行きなさい”とモアナを送り出すのですが

これは『親が子離れするシーン』でもあると感じられます。

親の概念や庇護で成り立っている狭い世界から、広い世界に子どもを送り出しています。

“たとえ、もう会えなくなったとしても、自分の信じた道を行きなさい”

「やるべきじゃない」と言っていた母が、親としてひとつ脱皮した姿のように映ります。



支配、コントロール、萎縮や依存の関係性の中には、本当の愛は育まれません。

それは、“愛のように見えるニセモノ”

知識量や経験値や収入や肩書に差はあっても、尊厳は対等です。



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